補足資料 朝倉用語集。

朝倉広景(1254〜1352) 但馬国養父郡の武士。斯波高経に従い、越前に入国する。黒丸城を居城とし、足羽郡、 坂井郡などを所領して力を蓄えた。

斯波高経 足利家貞の子。斯波氏初代。 越前金ヶ崎城で恒良親王、尊良親王、新田義貞らを高師泰らとともに攻撃し、陥落させる。後に藤島で新田義貞を倒し、越前・若狭の守護になる。観応の擾乱では、初め直義方、のち尊氏方につく。その後足利直冬に呼応したが再び幕府方に復帰。子の義将の執事就任を巡って佐々木道誉と対立。幕政を握るが義詮に疎んじられた。

朝倉高景(1313〜1372) 朝倉広景の子。朝倉城を築いたといわれる。京都において戦功を上げ、足利尊氏に引き立てられ、領土を増やす。

朝倉氏景(1338〜1404) 朝倉高景の子。父と共に京で戦う。寺社の建設に務めた。

朝倉貞景(1357〜1436) 朝倉氏景の子。

朝倉教景(1379〜1463) 朝倉氏景の子。永享の乱と結城合戦の鎮圧を行い、結城合戦では、大戦功を立て、将 軍義教から「教」の字を頂いた。

朝倉家景(1401〜1450) 朝倉教景の子。父より早く死ぬ。孝景の父。

足利尊氏(1305〜1358) 鎌倉幕府の有力御家人。勢威を失った鎌倉幕府に反して、京都を抑える。鎌倉幕府滅亡後は、征夷大将軍の護良親王を殺害し、後醍醐帝の行う建武の新政に反目。その後、後醍醐帝側に何度も敗北を喫するが、武士からの信頼は厚く、1338年征夷大将軍になる。

永享の乱(1439) 将軍義教の時代幕府から徐々に独立性を強めていく守護を抑えるため、特に独立心の強い、鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼした。

足利義教(1394〜1441) 足利義満の子。6代将軍。守護大名が独立性を強め、幕府の統制が利かなくなったのに 反して、鎌倉公方足利持氏を滅ぼす。しかし、1441年に播磨守護赤松満祐に暗殺された。(嘉吉の乱)

斯波義敏(1435?〜1508) 斯波一族大野持種の子。左兵衛督。享徳元年(1452)斯波義健が実子なく没したため、家臣甲斐常治、朝倉孝景の協力で武衛家(斯波本家)を継ぎ、越前、尾張、遠江の守護。将軍足利義政により三国守護を罷免されるが、文正元年(1466)一時復帰。応仁の乱には東軍に属した。文明17年(1485)義政の出家に伴い入道、法名は道海。

斯波義廉(?〜?) ・ 渋川義鏡の子。治部大輔、左兵衛佐。寛正2年(1461)将軍足利義政の命により武衛家(斯波本家)を継承。越前、尾張、遠江の守護となる。しかし、もと武衛家家督の斯波義敏と数度にわたり対立、文正元年(1466)山名持豊の助力を得て挙兵したが、一時三国守護、家督を廃される。応仁元年(1467)持豊の推挙により幕府の管領となる。応仁の乱では西軍となり、翌年管領を罷免。

山名持豊(1404年〜1473年) 山名時煕の子。永享4年(1432)父から家督を譲られ、但馬、備後、安芸、伊賀の守護職を兼ね、同7年惣領職を継いだ。同12年赤松満祐に代り侍所頭人となる。嘉吉の乱(1441)では白旗城の満祐を討ち、この功により播磨・石見の両国を与えられ、山名氏一門で8か国を領有する。文安2年(1445)播磨の奪還を狙う赤松満政を摂津有馬に討つ。宝徳2年(1450)家督を子の山名教豊に譲り、剃髪して宗全と号す。この頃細川勝元と提携していたが、勝元の同族細川成之が赤松家再興に尽力したため勝元と対立する。管領家の畠山氏、斯波氏両家の家督問題での一族の分裂と対立は、将軍足利義政の弟同義視と子同義尚の将軍継承問題ともからみ、子の義尚を将軍にと願う日野富子に頼られ、義視を擁立する勝元の東軍とのあいだに応仁の大乱が始まった。しかし、勝敗を見ずに没した。

細川勝元
(1417年〜1473年) 細川持之の子。通称は六郎。父の死により嘉吉2年(1442)家を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となる。文安2年(1445)以後3回、幕府管領に在任。山名持豊(宗全)の娘を妻とし、畠山氏の内紛には、宗全と共に畠山政長を支援して同義就に対抗させたが、やがて政所執事伊勢貞親と結び赤松氏再興をたすけ、斯波義敏をたすけて斯波義廉を支援する宗全に対抗するなど、山名氏の強大化を抑える方針に転じた。さらに将軍足利義政の子義尚が生れると、義政の弟義視を支持したので、義尚の母日野富子に頼られる宗全との対立は一挙に激化し、応仁元年(1467)大乱の勃発をみた。東軍の総大将として幕府にいたが、翌年義視は西軍に走り、戦局は混迷し、戦火は地方に拡大。そのなかで宗全に続いて没した。平素禅に励み、竜安寺などを建て、また歌道・絵画・犬追物を愛好した。

伊勢貞親(1417〜1473) 伊勢貞国の子、母は蜷川親俊の娘。初名は七郎、兵庫助、備中守、伊勢守。享徳三年(1454)家を継ぐ。将軍足利義政に信任され、寛正元年(1460)政所執事となる。殿中惣奉行・御厨別当などを兼ね権勢をふるう。文正元年(1466)斯波氏の内紛に介入、足利義視をおとしいれようとして失敗、近江に追われたが、翌年復職。文明3年出家。伊勢流故実の大成に貢献。『伊勢貞親教訓』を子の伊勢貞宗に書き遺した。法号は聴松院悦堂常慶。

畠山政長 持富の子。法名は宝隆寺殿。畠山持国の養子となるが、持国に畠山義就が生れると追われて細川勝元のもとに逃れる。享徳3年(1454)持国・義就父子を追い畠山家の家督を継ぐ。翌年将軍足利義政の仲裁で一時義就と和睦し、寛正5年(1464)管領となるが、山名持豊の援助する義就と再び対立し、応仁の乱を誘発。文明5年(1473)、同9年、同18年に管領となる。その専横ぶりが諸将の不満を招き、河内正覚寺城で自害した。

畠山義就(?〜1490) 畠山持国の長男。初名は義夏。右衛門佐を称す。父が畠山政長を養子としたのち、妾腹に生れる。父が家督を継がせようとしたため、畠山氏は2派に分裂。細川勝元や山名持豊が政長を援助したため、父と共に追放となる。康正元年(1455)将軍足利義政の仲裁でいったんは政長と和睦するが、のち再び対立。河内や紀伊方面で転戦。その剛勇ぶりが持豊に愛されるが、応仁の乱を起し、乱後も畿内で転戦した。法名は宝泉寺殿。

朝倉孝景条々(朝倉敏景17箇条) 分国法の一つ。孝景(一乗谷初代)が子の氏景に残したもの。宿老を定めるな、世襲の禁止、名作の刀より百疋の鑓、城下への集住令などで、17条にわたる。実際には、城下への集住などいろいろと実施された形跡はあるが、なかなか現実的に難しく、朝倉家の統治に於いての理想として代々受け継がれる。

朝倉宗滴話記 宗滴の自筆ではないが、その語るところを記したと伝えられる。大将たるべき者の実用書。 城を力押しするようでは大将の資格はない。大切な兵士を殺すことになる。 武者はたとえ犬畜生と言われたとしても、勝つことがその本分である。 鷹狩りと称し、普段から各地の地形を覚え込んでおくこと。 合戦が開始されたら大将は前線近くにいなくてはならない。戦果は全て大将に報告される のであり、後方にいては陣備えが薄くなってしまう。 退却時には大将は堂々としていること。言葉にも弱々しいところを見せてはならない。 敵方の者に金を撒き、情報の収集につとめよ。 など八十三ヶ条からなる。

朝倉宗滴(1477-1555)  一乗谷初代孝景の息子。18歳での初陣から79歳での加賀征伐まで数多くの戦争に参加する。一時は、朝倉宗家の継承を望んだがかなわず、宗家の重鎮として君臨した。戦略の必要性から加賀を攻める事を強引に主張した。なかなか受け入れられなかったが、着々と準備をすすめ、最後の願いをかなえるかのように奔走する。そんな中、越後上杉家の挟撃の誘いを受け出陣の許可を得た。しかし、陣中で病没し、加賀征伐を行うことができなかった。 彼の死で、朝倉氏は完全に世代交代を行い、重鎮を失った朝倉一族は崩壊へとすすむ。

足利義昭(1537〜1597) 室町幕府15代将軍。在職永禄11〜天正元(1568‐73)。京都生れ。足利義晴の二男、母は近衛尚通の娘。初め興福寺一乗院に入り、覚慶と称したが、永禄8年兄足利義輝が松永久秀らに急襲されて自害すると、幕府を再興すべく翌年還俗、義秋と名のり、同11年元服して義昭と改名した。同年織田信長と結び京都を回復、将軍に任命されて幕府を再興し、翌年従二位権大納言に進んだ。やがて信長と反目、武田信玄、石山本願寺、浅井長政、朝倉義景らを糾合して信長を討とうとしたが、天正元年(1573)信長のために京都を追われ、室町幕府は崩壊した。以後、毛利、上杉、本願寺などを頼り幕府再興を策したが成功せず、山城槙島に隠棲し、出家して昌山道休といい、豊臣秀吉から1万石を与えられた。文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵の際は肥前名護屋に従軍した。法号は霊陽院昌山道休。

浅井亮政(1491〜1542) 小谷城主。上坂氏を討ち領国を横領。小谷城を築き、朝倉と同盟を結び、京極、六角連合軍を退ける。

浅井長政(1545〜1573) 浅井久政の子。初名は賢政。新九郎、備前守と称す。近江小谷城主。永禄3年(1560)家督を継ぎ、野良田合戦で六角義賢を破り、同6年観音寺騒動に反六角方を支援。この頃から江北を中心に勢力を拡張、また戦国大名としての家臣団組織を固めた。同10年織田信長の妹お市(小谷の方)を妻とし、友好関係を結ぶ。しかし元亀元年(1570)以後、信長と敵対し、朝倉義景と結び、近江姉川に織田・徳川連合軍と戦ったが大敗。天正元年、小谷城を攻められて自殺した。

徳川忠長(1606−1633)  家光との3代将軍の座をかけて争ったのは余りにも有名である。 このころはまだ長子が家督を相続するという制度はまだ確立されていなかったため嫡男竹千代より秀忠・お江与の方は国千代をかわいがった。 城内では竹千代に比べ利発な国千代が、3代将軍を継ぐとうわさが絶えなかった。 その事態を打破すべく竹千代の乳母である春日局が家康に直訴する。 家康はいまだ豊臣家健在のこの時期、家督問題が徳川家の命取りになるのを恐れ、江戸城に向かい竹千代を上座に座らせ、国千代にはそれを許さなかった。 これにより将軍継承は竹千代であるということを天下に示した。 大御所が没した翌年の1617年竹千代は江戸城西の丸に入り正式に世子で有ることを明らかにする。 国千代はその年信州小諸城10万石を賜り、翌元和4年元服して忠長を名乗り、従四位下左近衛権少将を叙位し甲斐25万石を加封、同6年参議になる。 同9年 将軍秀忠 、将軍職を 家光 に譲り大御所となり、忠長も従三位に叙せられ権中納言になる。 寛永2年には更に駿河・遠江の両国を加え55万石で駿河に居住する。翌年従二位権大納言となり世に言う駿河大納言殿と言われるようになる。 時に忠長21歳、 御三家 の 紀州家 と同じ55万石であり将軍の弟であったため、東海道を上下する諸大名は 駿府城 に立ち寄り忠長のご機嫌を伺った。 将軍になれなかった忠長は将軍家の実弟として、100万石か大阪城を望んだと言われている。また忠長の暴君説としては駿府城裏の浅間神社で殺生禁断の地でありながら野猿を1240頭も射殺した、酒に酔っては誰かれかまわず斬り殺した。などがある。 また謀反説も飛び交い、寛永8年5月大御所秀忠は忠長の甲府への蟄居を命ずる。 翌年秀忠が没すると後ろ盾を失った忠長は、幼少より虫の好かない弟を片づたがっていた家光より高崎幽閉・改易を命じられる。 忠長は数名の小姓と愛用の槍1本、馬1頭で高崎に移る。 その後家光は忠長に切腹を命じたと言われ、それを察した忠長は寛永10年12月6日切腹して果てる。

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