1.朝倉氏の隆盛と越前支配
 朝倉氏の出自は、景行天皇、孝徳天皇、開化天皇の子孫と諸説別れている。
開化天皇の子孫が有力ではあるが、言えることは、天皇の子孫であると言うことである。(家系図参照
 姓は、日下部を名乗り、但馬国(兵庫県)養父郡、朝来郡を領地としていた。 平安時代の末期の宗高に至り、姓を地名養父郡朝倉からとり朝倉に変えた。
朝倉氏は、宗高の息子太郎大夫高清をもって朝倉氏の祖としている。
 高清は、源平合戦に平家側に加担し、源頼朝から領地を没収された。しかし、後に功名をあげることができ復興した。その際に、頼朝から、元来の木瓜1つの家紋に二つの木瓜をそえた家紋、三盛木瓜をもらい、それ以来朝倉氏の家紋として使用された。
 朝倉高清8代の子孫広景の時代は、鎌倉幕府が滅び南北朝の騒乱が起こった。 1333年4月足利高氏が、丹波国篠村で挙兵する。それに合わせて、広景は高氏の元に参じた。そこで、広景は、足利氏の一門である斯波高経に属した。 そして、藤島において、新田義貞を破るなど戦功をあげ、恩賞として、越前坂南郡黒丸城城主となる。その後6代にわたり黒丸城は、朝倉氏の拠点となった。 その後は仏門に入り、寺社の建設を行った。そして広景は、98歳にて生を終える。越前朝倉氏の祖である。
  越前朝倉氏二代目は、正景である。1355年京都で戦乱が起こると、正景とその子とともに大いに戦功をたて足利尊氏から、旧名の「高」を正景に、氏をその子に与えた。 それ以来、それぞれ、高景、氏景と名乗った。  
  高景は、その後も尊氏に引き立てられ足羽荘預所職を任じられる。斯波高経が乱を起こした際も、斯波高経に従わずに幕府に従い、越前の大部分の地頭職をえた。 59歳にて死去した。
  その子氏景は、父と共に京で戦功を立てたほか、一乗谷に熊野権現を勧請した。それが、朝倉氏と一乗谷との初めての繋がりである。 66歳で死去。
  四代目は、貞景であり、下野守を号した。79歳にて没する。
  五代目は、教景で、美作守を号した。 永享11年、足利持氏による永享の乱の際に、将軍義教の命を受け関東に出陣した。その後、嘉吉元年に、結城氏朝が持氏の遺児を擁し、幕府にそむいた際に、持氏の遺児2人を生け捕るなど戦功をたて、義教から、「教」の字をもらい、教景と名乗った。 84歳で死去。
  6代目は、家景といい、為景、教景とも名乗った。下野の守を号す。49歳で父より早く没した。 以上が、越前黒丸城の朝倉氏である。
 家景の子孝景の時代に一乗谷に居を移すのである。 また、孝景は有名な分国法「朝倉孝景条々」を息子氏景に残している。
2.応仁の乱
 孝景が当主になって(家系図下部参照)、2年後、主家筋の斯波氏の当主義健が18歳で死亡し斯波氏の正系が途絶えた。
一族の斯波義敏が、後を継ぐが重臣の甲斐氏、織田氏、朝倉氏と折り合いが悪く、遂には直接戦闘を交えるにいたる。一進一退を繰り返し、幕府の管領、遂には将軍までも巻き込んだ。義敏は、隠居に追い込まれ、息子松王丸に家督を譲るが、結局、彼も追い出され、傍系の渋川義廉が継いだ。そして朝倉氏は、義廉の補佐を任じられ、領所7ヶ所に守護代の地位を与えられた。 しかし、義敏は大内氏にのもとに逃げ、政所執事伊勢貞近の後援の元に復職する。そして、義廉を追放し、義廉に与同していた山名持豊(宗全)の切腹を将軍が命ずるまでに至る。しかし、山名一族が、武力蜂起を決行し義敏や赤松正則ら、伊勢貞近の一派を駆逐する。こうして、義敏は、復職後1ヶ月保てずに追放され、義廉が再び越前守護に就く。
  しかし争いは、それでは終わらず、斯波氏に加え畠山氏の後継ぎ問題も絡み、伊勢派は、管領細川勝元を頼るなどして次第に勢力が二つに分かれて対立していった。 1467年(応仁元年)正月八日、突如当時の管領畠山政長に代わり、斯波義廉が管領に任命された。これは、反政長、勝元派の山名豊持、畠山義就らの工作で為された事だった。 これに対して、畠山政長は、自邸に火を放ち、上御料神社に陣取った。畠山義就は、政長の陣を攻め落とした。これが大戦乱応仁の乱の初戦であった。 朝倉孝景は、この戦いに斯波義廉につき、斯波義敏の父持種の屋敷を攻め、持種一家を追い払っている。
  その後、細川勝元を中心とした、細川一族、畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松正則、六角正高、武田信賢などの西軍と、山名持豊を中心とした畠山義就、斯波義廉、六角高頼、一色義直らの西軍に分かれて争いが続く。 孝景は、西軍にあって、京極持清、武田信賢らと戦闘を交わし戦功上げた。また、京都の至る所に放火して西軍の主力として働いた。 六月、将軍が東軍につき、弟に西軍山名持豊の討伐を命じた。西軍の諸将は、賊軍になるのを畏れて、東軍に投降をするものが多かった。そこで、斯波義廉の降伏条件として、朝倉孝景の首というのが出された。かれはそれほど東軍に恐れられた。
 しかし、長く京都で戦っているうちに、斯波義敏が、孝景の国許を攻撃し次第に蝕まれていき、応仁二年には、息子氏景を残して、来春三月の再上洛を約し帰国した。
  国元に帰った孝景は、西軍のためにかつてのように働くでもなく、東軍の勧誘を受ける。東軍についたなどの噂が流れるなど、東西はっきりせずに煙に巻いて、越前の支配に奔走する。 東軍の勧誘工作の中に越前支配について、望み通り、と言う将軍の書類を受け取る。実際、朝倉孝景が守護になったわけではなく、傀儡を立てたのか、無設置かは分からないが将軍は実質的に朝倉氏の越前支配を認めていた。
  将軍義政は、援軍を送るなどして孝景を懐柔した。 西軍から東軍に寝返った孝景は、西軍方の越前守護代甲斐氏と戦火を交える。文明三年 (1471)翌四年の激戦を経て、甲斐氏を破って、越前をほぼ領土に入れた。 しかし、甲斐氏も食い下がり、美濃守護代斎藤妙椿の仲裁による和睦を経て、遠江の守護代に移転することにより文明7年にようやく戦火が収まる。 甲斐氏も東軍に寝返る形になるが、越前の領土は、朝倉氏が支配した。 その後は、京都での乱も下火になるが、越前では、義敏の息子松王丸が元服し義就と名を改めて、弟の義孝や甲斐氏を引きつれ越前北部に進入し、越前北部の諸城を攻略した。 しかし、戦乱は、越前北部からは広がらず、押さえつけられた。文明13年、そんな中、甲斐氏との戦いの際に孝景が陣没した。
  後を継いだのは、息子の氏景であった。彼は、父遺志を受けて甲斐氏と決戦を行い大勝した。彼は、美濃斎藤氏の斡旋を受けて、べつの斯波氏を越前守護に立てるなどして、越前支配の名目を得て、斯波義良と戦い尾張に追い払った。 しかし、文明13年、氏景は38歳(28歳説も)の若さで死去する。
  そうなると、後を継ぐ息子の貞景は若く、弱冠13歳であった。 家臣団は勝手な振る舞いをなしどうにも統制が取れなかった。 長享元年(1487)には、将軍足利義尚が、近江の六角高頼が寺社領を横領したことを理由として攻め込んだ。貞景は、一族の朝倉景冬を送り込み援軍した。 しかし、寺社領を横領したのは朝倉氏も同じであった。そこを、斯波義寛(義良の改名)が、しきりに、朝倉氏の越前支配の不当性と合わせて将軍に討伐を求めるが、そのいちいちに反論して、押さえ込むことができた。
  第二回目の六角征伐の際も、再び朝倉征伐の問題が起こり、今度は征伐令までが出たが、武力を背景とした、反論に遂には事なきを得て危機を乗り切った。 朝倉氏の総兵力は2000人の部隊を6つ合わせた12000で、第一部隊には、雑兵が一人として混じってなく、威盛んであったため、これをみた甲斐氏は、討伐令が出ながらも攻めるのに二の足を踏んでいたといわれる。
  文亀三年(1503年)に内乱が起こった。孝景の妾腹の子景総(元景)と正妻の子教景(宗滴)が起こしたものである。元景と宗滴は、貞景を主君に仰ぐのが我慢できなかったといわれる。 血筋からすれば、宗滴が継ぐのが普通ではあるが、父が死んだときは僅か4歳であったため、後を継げなかった。
  そして、元景の娘が、朝倉景冬の息子景豊にとつぎ、景豊の姉妹等が宗滴などの朝倉一族に嫁ぎ、一大勢力を築き上げて、着々と準備を進めた。 しかし、あっけなくこの乱は終わる。宗滴が貞景側に寝返り、貞景は機先を制し、景豊を攻め圧勝。元景は、景豊と合流する予定であったが、それすらできずに加賀に敗走し、元景はその後も越前を目指すが病没した。
  宗滴は、返り忠が認められて、以後、朝倉家のために尽くすのである。 永正6年(1506年)越前、越中、加賀、能登の一向宗が、大挙して蜂起し、三十万を擁して加賀から越前に攻め込むが、貞景は、奮戦しそれを退けた。 しかし、その後に貞景、鷹狩の最中に頓死した。享年40歳であった。 (朝倉宗滴話記
3.最盛〜滅亡へ
 貞景の後継ぎは孝景である。四代前と同じ名前である。 孝景の時代の朝倉氏は、戦争に明け暮れることになる。領土拡張を狙ったものではなく、将軍のための大義名分による戦争ばかりであった。 永正14年6月、丹波に於いて守護一色義清と、守護代延永春信とが争った。延永が若狭守護代逸見氏を仲間に引き込んだ為、若狭守護武田元信までも巻き込んだ戦いになった。   それに対して、将軍は、朝倉氏に命じて、逸見方を攻めさせた。宗滴が鎮圧にあたり乱を治めた。
  そのほかにも、同年12月、美濃における守護と守護代の争いを将軍の命により、逃れてきた守護代を美濃に帰国させたりした。 そして、大永6年に、江北の浅井亮政と六角氏との争いが激化した。 そこで孝景は。宗滴を派遣して、浅井側に加勢して六角を退けた。 以後、浅井氏と朝倉氏は、強く結びつき両家が滅亡するまで、ゆるぐことは無かった。
 以降は、美濃へ出陣したり、京で将軍の援軍をなしたりした。さらには、丹後に於いて海賊を退治し、加賀の一向宗とも戦火を交える。 1531年に始めて和議を結ぶまで10年間を費やした。
 孝景の代には、対外戦争は多かったが、国内に於いては一度も戦争をすることなく国を安定させた。そうして、幕府での地位も向上し朝倉氏の勢いは益々盛となった。 そして、鉄砲が伝来しにわかに激しさが増してきた戦乱のなかにおいて、孝景は急死した、天文一七年(1548)56歳であった。
 後を継いだのは、朝倉義景である。義景が国主になった時は、弱冠16歳で、名も延景と名乗っていた。  国内では、犬追物や、和歌などの会を行った。国外では、若狭の内乱に対して、守護武田義統に味方して執拗に若狭に兵を進めた。 加賀にも兵を向けるが、その最中に、大将同士が反目し景が切腹するなど、一族の統率が乱れ始めた。
 そして、永禄8年、将軍義輝が、松永久秀によって暗殺された。この弑逆で将軍の一族の多くが殺されるが、末弟の一乗院覚慶は生き残った。 朝倉義景は、松永久秀から覚慶を救い出した。覚慶(義昭)は、以後、越前、若狭などを転々とするがついには、一乗谷に入った。 義秋(覚慶の還俗名)は、諸国をまとめ上げて上洛を行おうとするが、なかなか上手くいかなかったが、義景の周りを篭絡してしきりに上洛を求めた。 義景はそれに応ぜず、義昭(義秋の元服後の名)は、織田信長の元に行くこととなる。 以来朝倉と織田の対立が始まる。 その後は、織田との戦いに明け暮れる。 1570年、敦賀まで進軍した信長軍は浅井長政の突然の離反により撤兵、朝倉・浅井連合軍は姉川の合戦後南近江から洛中にまで侵入したが、正親町(おうぎまち) 天皇と将軍義昭の調停により信長と和議を結ぶ。  1573年7月、浅井氏救援のため兵を進めた義景は、8月14日利禰坂(とねさか)の合戦に敗北、一乗谷から信長軍に追われ大野(福井県大野市)へ逃げたが、一族の朝倉景鏡(かげあきら) の裏切りにより同22日に大野六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ)において自害し、朝倉氏は滅亡した。
 その後は、子孫宣正は徳川忠長に仕えて遠州掛川2.6萬石を領したが、主人に連座して断絶した。

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