サークル誌『天下布武』第二号掲載小説

作者:山原水鶏

題名:訃音

 およそ恐怖は精神的または肉体的の病人を観察することから生ずるものが最も強力である。

       ポオ (佐々木直次郎訳)

 

 ルグラン=アンダーソン――この奇妙な客を招き入れて凡そ二週間を数える。そして、ゲル=フィンジーは、十年間――畢竟この生業を興して、最も酷な期間を過ごしたろう。

 抑も、この生業は、仕事である以上に至福を得るためであった。又、澄んだ水の細流、虫の音、鳥の囀り、芳しい森林の融然たる移り変わり、漠々たる淡い青空、表情のある岩肌、――それらを背景に、瑞々しい家族連れ、活気のある夫婦たちと、共に語らい、共に山道を歩いて、この自然の溢れるペンションで、豊かな時を過ごす為でもあった。

 その些細な願望が、つい最近まで実現し得たとは、寂寞たる現状から果たして推測できる筈も無い。

 ルグランという人物は、凡そ理解し難かった。憂鬱な素振りや、華奢な身体、異常な寡黙、蒼白な面、――といった性質を咎めはしまいが、部屋に篭もる行為は、散歩が好きなゲルに苦痛を感じさせた。発作的な痙攣――断末魔の如き苦悶に驚かされたのは、一度ならず度々あった。ゲルは、その時分に思い切って彼にその病的なまでの発作が何たるかを尋ねた。――ルグランは、彼自身の病をあっさりと白状した――心臓病である、と。

 凡そ一週間前、彼の特異な性質を知った上で山歩きに誘ったが、明瞭な返答無しに今日に至った。彼に面する機会は一日に二度――朝食と夕食の時――その生理的な欲求の以外は、例の如く巣に帰り、毫も姿を見せないのである。部屋に篭もる理由は、――理解し得る限りでは、ピアノを弾いているのであろう。

 あの部屋を借りる以前の彼の隻語で、“ピアノの置いてある部屋”と漏れたのを不明瞭ながら憶えている。無論、彼の行為を否定しないが、気休めで――そうでなければ、一体何のためにこの山奥にきたのであろう――散歩に出かけてもよいではないか。碧雲の覗かせる日は余程そう言い出そうかと思い立つのだが、――今日のように陰鬱なる天候では、唯気が滅入ってしまうばかりであった。

 ああ、今は黄昏かと天に問わん――暗雲に轟く雷鳴が、時折ゲルの身体を恐懼に震え揚がらせた。それにより、二枚の皿を床の餌食にしたのである。テエブルに用意した燭台の幽かな火が、虚しきも幽暗なる物々の残像を創る結果となってしまった。

 ゲルは、夕食の支度を済ませ、唯一の客、ルグラン=アンダーソンを待ちわびていた。然し、貧弱な青年に会いたいという感情は毫も起こらなかった。彼との邂逅が、今又は後生に於ける汚点であるように思われた。

 いつしか回顧の中に彼を見出すことがあろう――その時にゲルは、後悔に似たある種の謂い難い――精神的な苦痛に苛まればならぬ――それは到底避け難く、突発的に起こり得ることが、容易に推測された。

 彼がこの地を去るまで、その悪夢は日を追って引き延ばされようが、安息がいつ訪れるか――彼がいつこの地を去るのか、凡そ見当がつかなかった。そのことは、彼の不審な行動以上に謎であった。

 やや、かれこれ暫くが過ぎた。悩ませる悪魔は、今、空腹という毒をもってゲルを括り付けていた。皿の光を奇妙に変化させる冷ややかなランプが、嘲笑うかの如く揺れ、影の中で萎えている。

 ゲルは、密かに耳を澄ましながらも、円卓の周囲を慌ただしく往復していた。階段を下りる重々しい足音に期待していたのである。 然し、暫く経っても、若人の発てたらしい物音は何一つ聴こえなかった。それどころか以前より増して、窓を叩き突ける雨音が耳につくようになった。

 食卓の料理はすっかり冷めてしまったが、それを客に出す心配は、あの者を待つ不安に到底及ぶ心境では無かった。

 ああ、彼はどうしたのであろう――ゲルは思案を巡らせた。悪しき想像から善き展開まで、彼の思いつくままに考えた末、――それに心なしか意図が加わっていたろう――最も曖昧且つ安楽的な“彼は腹保ちがよい”という判断へと推測をおさめた。だが、想像は実質を超えない――彼の実際の様子を窺わぬことには、明瞭なる事実を得ることが出来る筈も無かった。

 卒然、卓上の蝋燭が溶け消えて、ゲルの顔ばせを濡らしていた儚き光が、すっかり蔭に覆い尽くされてしまった。彼は、背筋を俄に強ばらせ、重苦しき息を吸い込まねばならなかった。辛うじて、ランプの光で闇の桎梏を免れたが、耐え難い悪寒が身を蝕んだ。悪寒――それが、暗示する神々しい恐怖よ。

 その奇妙な恐怖心の大半は――あの忌まわしきルグランの存在を誇示し、――模糊たる幻影は、斯くも白む胸襟に溶けて、震えの一片に荷担し、死神の如く嘲り、闇の傍らで揺れていた。一息吐いてもそれは治まることなく、――それどころか――彼との対面をせぬことを良心に呵責する如く、催促する如く、動悸は俄然として高鳴った。暗示に似たこの感情はじっとしていては到底治まらぬ気がした。

 ゲルは、気を紛らわす為に、一度椅子に腰掛けた、――が、先程までの空腹が、虚構の欲求であったが如く、全ての食事が眼界から削がれた。

 更なる雨音が心臓を打ちつけて、科戸の風が心理を掻き乱した。この艱難辛苦に到頭耐え難く、彼に会うことを――理性に反して――決意した。か細い青年に対する恐怖の念は、依然ゲルの心を遮っていたが、そうすることで心理的呪縛を解けるように思えてならなかった――それが、気休め程度であっても、若しくは、多大なる功績に感じられよう。

 彼は漸く立ち上がって闇に誘う階を昇り始めた。微かな軋みが、身体に幾何と電流を走らせ、危うくば死に追いやるところであった。

 慎重に登り終えると視界を遮っていた幽遠たる空間が、次第に灰色の廊下となって浮かび上がった。

 時折飛び交う雷光が、刹那に色を創造し、――卒然、幻影の如く闇に伏した。

 彼は、震える木偶の脚で膝行を重ね、最も幽暗なる部屋の、――憂鬱なる悪魔の住処の、煉獄の門の如く聳える冷血の扉を、半ば恐怖の、半ば放心の思いで見上げた。

 それを慎重に弱々しく――然し、この闇の中では執拗に仰々しく轟いた――叩いた。余韻が消えても尚寡黙な者の返答は無かった。焦燥の思いで今一度、先程よりも強く叩いた。――だが、凡そ結果は同じであった。

 はて、彼は床に就いているのか――取っ手を回して引くと、件の扉はいとも容易く開いた。勢いよく飛び込んだ光が眼を焦がしたが、視界が正常となるまで暫くと懸からなかった。

 漸く色づいた光景は、蒼然として悲愁に淀んだ――全く地獄の如き世界であった。

 ああ、神に祈りながら悔悟を呟いた――瞳孔に映る、全く以て陰惨な、――ピアノの鍵盤に横たわった悪魔の惨き屍が、――ああ、ルグラン=アンダーソンの姿が、異常な戦慄の渦に埋もれていたのだ。

 然し、奇妙にもこの哀れな者の死を目前として――全く不可解な行為であろうか、若しくは、当然の摂理であろうか――堕ちた剣奴を傍観する如く、召された輩を、静かに、冷ややかに、半ば誇らしげに見下げた。

 嫌悪を感じながら死体に近寄ったが、入口付近で観たそれと同じく――否、それ以上に屍体らしく見えた。

 蒼白な唇から滴り落ちた甚だ陰惨な、褪色をうけた血が白き鍵盤を汚し――その神聖なる色に変色した指と頭部が突き刺さり――そうして、今は聞こえぬ不協和音が、この部屋に轟く全ての鼓動を掻き消していた。

 ルグランの白目は、頻りに此方を凝視している。ゲルは、この様な形相を、嫌悪の、そして侮蔑の眼差しで睨み返したが、――突如と襲った畏怖の前で、それの視線を避けるが如く、丁度ルグランの目線に当たる方向へ顔を背けた。

 ふと彼は、白きテエブルクロスの掛かった円卓の上にある、異様な機械に目を奪われた。これは、端から此処に無く、部屋の主が持ち込んだらしい――只、これに対して嫌悪を感じぬほど身近な、――だが、ゲルには到底縁の無い物であった。

 彼は、ルグランの容姿を一瞥して思案を巡らせた。

 成る程、これはとある音楽を聴く為か、若しくは、何らかを――彼の奏でた音楽を録音する為の物であったか。

 この奇異な物は、彼の好奇心を逆撫で、躁状態に似た――先程までとは異なる動悸を宿させた。

 はて、土塊は何を残したろう。この地に逗留して幾何嫌悪と畏怖を振りまいたろうか。そうして、今はことも有ろうか此処で醜態を曝している。成る程、君は幸福者だよ。好きであろう事をしながら天に召すとは。

 異状な興奮と衝動が、ゲルの感情を支配した。その機械の再生釦を押し、――死者の冒涜に対する嫌悪は、全く以て理性として機能しなかった――鉄の如く強ばった木製の椅子に深々と座した。

 君の幸を少々分けてくれてもよいのではないか。――この中の内容を聴く義務が有ると思うがね。君は散々迷惑を懸けたのだから。

 機械から漏れる音は、二三の雷鳴の後、彼が期待した通り、ピアノでの演奏――幽遠な程明るく、颯爽として軽やかな、美しい旋律となった。

 この妖艶たる旋律は、もしや天使の戯曲ではあるまいか。

 時折この音楽の合間を縫って聴こえる雷鳴が、確かにルグラン=アンダーソンの今日の演奏である、と微かな形跡を型取っていた。

 ゲルは、この情熱的な音楽にすっかり陶酔し、――少なくとも彼をこの様に陥れる魅力の前にルグランの存在は皆無であった――死体がこの部屋に居ようとは丸で脳裏の一片から消え失せた。

 ゲルは、美しきセイレーンが暴雨の中で歌う姿を思い描いた。――果たして、それを連想させる何があるというのだ。然し、豪雨の中で、遡及の中で、燦然と住まう、寂寥たる後ろ姿――その美女とは、誰ぞや――

 そうして、セイレーンの美声から漏れる叙事詩に、――開闢創世、戦争や凱旋、豪傑の勇姿や攻防、――等々あらゆる旋律に耳を傾けた。

 その間、夢現は流水の如く時を空費させ、歴史の星霜は幾何も積もった。ピアノの演奏は、彼を白日夢に駆り立てて止まなかったが、――時折聴こえる子供の啜り泣き――何処からか響き渡る喘ぎ声が、漸次に耳に付き、彼を不快にした。

 やや、セイレーンの童子が空腹で苦悶を揚げているな――暫く経てば止むのだろうと思い、彼は、暫く微笑を浮かべていたが、――慟哭は、一向に尾を引き――それどころか、次第に呻き声へと――徐に消え、忽然と漏れる奇異な嗚咽となって、悠々とセイレーンの歌声を呑み込んでしまった。

 極度の畏懼と恐怖が脳裏に吹き返した。耳を澄ます程――ああ、何という事だ――あの者の魄が発している様に――あの朽ちた唇から漏れている様に聴こえてならないのだ。

 もしや、あの者が――ああ、口にするのも忌むべき名だ――ルグラン=アンダーソンが、子供染みた所業を北鼠笑んでいるのではないか。

 ゲルは、漏れる息を呑み込もうと努めた。

 彼は死んでいなかった――背後で嘲笑し、今にも立ち上がらんとしているのではないか。いや、違う、違うぞ――この不可解な声は、この嘲笑は、この苦悶は、――決して背後から聞こえているのではない、決してそうではない――

 ルグランの叫びは、絶え絶えに高く発せられ――その度にゲルの動悸は、発作的に躍り上がった。ああ、この背徳行為――部屋に侵入し物色したこと――彼を死者と見なした行為を、咎めはしないか。奴は、白い眼で此方を向いているのではないか。

 それを証拠に、彼の音楽は、悪魔の饗宴の如く秩序を失い、旋律を乱し、甚だ死を予感させる奇異な音律は、奔放と狂い――そうして、刻々と肥大する嗚咽は、微かに、確かに、思わずとも――“ゲル、助けてくれ”という言葉となって脈々と放たれていたのだ。

 彼は、悲鳴を揚げ――それは、返答でもあった――徐に悪魔の魂の宿るピアノの方向を向こうと、――半ば諦めの念が募って――立ち上がった。

 その瞬間、――断末魔の叫びと、奇怪な和音が、凄絶な怪音となって部屋を埋め尽くし――ゲルの脆弱な胸襟を躊躇いもなく畏縮させた。彼の身体は、俄に氷の如く固まり、――崩れ堕ちた。

 煌々とした空間の中で、幻妖の如く放たれた“音”は、凄然とした二体の死骸の上を、唯意味も無く覆い尽くしていた。

作:平成九年九月

 

        梗概

 山奥の鬱蒼とした民宿で、唯独り奇妙なルグラン=アンダーソンが、泊まっていた。彼は、食事以外は己の部屋で篭もり、二週間を過ごした。

 宿主ゲル=フィンジーは、彼の不審な行動を甚だ訝り、次第に疎んずるようになった。

 暗闇に淀んだ雷鳴の飛び交う黄昏の日、ゲルは夕食の準備を済ませて、ルグランの訪れを食堂で待ちわびていた。ところが、一向に姿を見せない。

 ゲルは大層気を重くして、次第に畏怖に駆られる。然し、客に料理を出さずにはいられず、彼の部屋を訪れることを決意する。

 二階の彼の部屋は、赴くのに五分とかからないが、気の重いゲルには、途方のない幽遠とした処であった。

 二度重苦しい扉をノックをしたが、返事がなかった。

 徐に扉を開き、部屋で見た光景は、既に亡骸となったルグランであった。ピアノの鍵盤に凭れ掛かるようにして死んでいた。

 然し、それを目しても、全く悲哀の情など起こりはしなかった。

 ふと、机の上にある、ルグランの持ち物と思われるカセットレコーダーを見つける。

 彼は、それに興味を奪われ、再生すると、美しい音楽が流れてきた。

 今日ピアノで演奏された音楽であることに留意したが、さして気にはしなかった。

 暫く、ピアノの音に酔いしれた。

 次第に何処からか不気味に聞こえてくる慟哭が、ゲルを不快にさせた(それは、音楽とともに録音されたルグランの呻きであった)。 彼は、それをゲルの魄が発した声であると錯乱し、恐怖に駆られる。

 ルグランの“ゲル、助けてくれ”という声(発作が起きて苦しんで助けを呼ぶ声〔カセットテープから聞こえる〕)で、ゲルは死体の方を見ようとする。

 その時、断末魔の叫び(録音されたゲルの死の間際の声)と奇怪な和音(ルグランが鍵盤に倒れかかった時の音〔録音された音〕)を聞き、ゲルはショック死する。

 部屋に残された二つの死体は、煌々とした光と、不協和音(録音されたピアノの間延びした音)に包まれていた。


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