サークル誌『天下布武』第四号掲載小説
作者:山原水鶏
題名:天獄
そこは、とにかく咽ぶほどに辺りの白み、奇異な甘味に瞬いていた。かつて、このような妖艶たる雰囲気に触れたことがあろうか。しんと静まり返る余波が、発狂の兆しを幾度となく胸に突き刺してきた。
ああ、僕はどうしてこんな処にいるのであろう。一体全体ここは何処であろう。そうして、何時までここにいればよいのであろう。自分が立っているのか、座っているのかさえわからなかった。はたまた眠っているのか――僕の感覚の麻痺しているのに違いない。
分厚い霞は、身体を見ることさえも遮っている。時折、そこから生暖かい、音をも発てぬ風が吹き込んでくるのだが、辺りの震える様子もない。雲の中にいる様でもなさそうだ。それにしても、乳の香りを髣髴させる臭味のあまりに狂おしいことよ。それは、幾度も憧憬の念を抱かせた。――あの、現世に対して何の蟠りをも持たぬ、穏やかな、安らかな生活――。
その頃に比べれば、僕は何と下劣な人間となってしまったろう。知識を得たことで人を蔑み、知恵を得たことで人を陥れ、快楽を知ったことで欲望に走り、絶望を知ったことでそこから逃れようとする。――
そうだ、僕は死んだのに違いない。僕は、絶望の淵から身を投げたのだ。厭世家の常套手段を用いたのだ。そうして、ここは死の世界であるのに違いない。そう定義付ければ、この異様な世界の何たるかの納得を得ることができる。
しかし、死――かつて、僕はこのようなことを考えたことがあったろうか。いや、考えることを極力避けていたはずだ。それは、あまりに漠然としている。
人は――いや、人間は死んだらどうなるのか。思考は何処を彷徨うことになるのだろう。僕は、死んだら無になるものだと信じていた。夢を見ない深い眠りの如く暗い、暗い処に堕ちていくのだと。――
だが、それも一つの空想――受け入れの知識に過ぎないのではないか。かつて、死後の世界を垣間みたのは死人のみである。死人に訊かねば、正論は生まれぬ。だが、悲しくも墓石に尋ねたところで、彼らの語るのは無情のみである。
だが、もし、ここが仮に死後の世界であるというなら、僕を納得させるのには十分な環境であった。ここは、僕の想像――殊に、天国という名の世界とあまりにも似すぎていた。いや、僕だけではあるまい。かつて、死後の世界を二極に分けて考えたものならば、天国を光に包まれた処、地獄を闇に覆われた処としたのに違いない。僕の身体の見えないのも、もしくは、意識のみが光を漂っているからではあるまいか。――
僕の心は、不思議と落ち着いていた。そのことは、ここを先天的に天国だと知っていたからなのかも知れぬ。が、微々たる不安の生じるのを感じないわけでもなかった。果たして、僕の天国に入ることのできる資質があるのか。ここが、天国の内部であろうはずがない。入国許可を与える場所――煉獄なのかも知れぬ。僕の態度次第で奈落の底へと堕ちていくのかもしれぬ。
卒然、微かな音が僕を周囲を包んだ。僕は、聴覚のあるのを忘れていたので、殊の外驚いた。だから、当初その音は、獣の鼾のようにに聴こえ、何やらの低い声であるのに気づかなかった。
「――ということなのだが。」
耳が慣れて、漸くそういう風に聞き取れた。そのものの何処から話しているのか、まるで見当が付かなかった。とにかく、視覚からは、そのものの影さえも捕まえることができず、気配というのもまるで感じることができなかった。
「おいおい、訊いたことに応えろ。」
その口調は、実に不機嫌さを露にしていた。そのことは、僕の機嫌をも損ないさせた。尤も、そのものの話の前半を聞き取れていなかったので尋ねられたことに応えようもなかったのだが。
「と、いいますと、」
「だから、いまから、お前が天国に入れるかどうかの資質を調べるから正直に答えろ、と言っているのだ。」
天国という言葉は、僕を多分に安堵させた。が、返答次第ではまさに蜘蛛の糸が切れてしまうのであろうから、気を引き締めてかからねばならなかった。「――はい、わかりました。」
「ようし、じゃあ、訊くぞ。お前は、――だな。」
「はい、」
「お前は、――の生まれだな。」
「はい、」
「お前の両親の名は――」
そのものの質問のあまりに単調なのは、僕には自転車を乗りこなすよりも、或いは容易なことであった。というのも、それらの全ての返答に「はい」というのを用いればよかったのである。記憶する限りの僕の生涯の全てを質問し終わったところで、単調な声は眉をぴくりとも歪めずに次の質問をした。
「お前の人生の中で、人を殺めたことがあるか。」
「――いいえ、」
「嘘をつくな。お前はお前を殺めたではないか。その行為は、大罪であるぞ。お前は、神を侮辱するのか。」
僕は、何も言えなくなってしまった。事実をありのままに曝されるというのは心地のよいものではない。確かに僕は僕の身を追いやったのだろうが――「ひとつ、質問してよろしいですか。」
「ならぬ。お前はこれから地獄へ行くのかも知れぬ――いや、行く方に慨然性が高いのだから、天国に対する質問は受けつけぬ。」
「いや、この質問は、貴方の質問に答えるのに必要なことなのです。僕の生涯での過失の隠匿は、致しません。ありのままのことを話しますので、どうか僕に質問させて下さい。」
「――よかろう。但し、お前の言葉を神が聴いておられるのを忘れるなよ。」
僕は、しめた、と思わずにはいられなかった。少なくとも僕の弁解の余地を与えられたのである。
「それでは――神は予定説というのを採用しておられるですか。」
「それには答えられぬ。神の行為の詰問を許されると思っているのか。」
「それくらいは話してもよいことではありませんか。たとい、僕の魂の地獄に堕ちたとしても、現世に戻らないことには、その情報が外部に漏れることが有りますか、――無いでしょう。」
「――わかった、わかった。教えてやろう。神は予定説により人間の運命を定めている。」 神の冒涜をしているのかも知れぬ。が、運命の予定されているのなら、それこそ僕の軽んずられているのに違いなかった。「それは現世においてのみ、ですよね。」
「ああ、そうだ。お前は、現世の生活を終えて漸く運命から解放されたのだ。」
「なんと、それは、それは。ならば、僕の意志で僕の殺したのも、あるいは神の意志であったのですね。ならば、どうして貴方が僕を裁けましょう。」
「……、いやいや、大変失礼した。予定説というのは、お前の出生までを大まかな筋で決められているのに過ぎない。お前が死んだのは、やはりお前の意志によるものだ。」
僕は、このものの返答の矛盾に幻滅させられた。が、僕の運命の左右するのは、やはりこのものであったのに違いない。「僕の意志――ですか、そうですね。」
「――それでは、質問を続ける。お前は、何故にお前を殺めたのだ。神から授けられた生命を投げ出すのにたわいもない理由であったなら承知せぬぞ。」
「現世が嫌になったのです。僕の厭世的な衝動が、ついに極限まで達したからです。」
僕は、極自然に現世という言葉に重みを置いていた。
「何を言う。それは、偽善的な理由ではないか。」
「そうですか。僕には立派な理由であると思うのですが、」
「では、教えてやろう。お前は、孤独が嫌になったのだ。世間の中に取り残されたのが、お前には耐えられなかったのだ。違うか、」
「違います。人間は元来孤独であるのです。抑も、人間を人というのと区別するのは、人と人に間があるのに他ならないからです。」
「では、お前には天国という処は性に合わないのであろう。ここでは、人間同士が仲良く共存しあっているのであるぞ。」
僕は、首を傾げた――いや、そういう動作を起こした感覚に襲われた。「天国とはそういう処なのですか。」
「そうだ。」
「犯罪などはないのですか。」
「あるはずはあるまい。善人が住む世界に犯罪などあるものか。」
「それはまた――でも、善人でもなければ悪人でないものもいるのでしょう。」
「勿論、そういうものもいる。そのものたちでさえ、ここでは善人と同じように生活している。」
「それはおかしなことですね。集団生活をしていていっぺんも犯罪が起こらないとは。」
僕は、たといこの世界に住むことを許されても、歓喜を揚げることは無かろうと思うようになっていた。「では、ここに住むものたちは年をとらないのですか。」
「ああ、年をとらない。」
「現世で死んだままの精神年齢を持ってこの世界に住むこととなるのですね。」
「――そうだな。」
僕は、その声の持ち主のあまりに気弱な返答に微々たる喜びを勝ち得ていた。
「それでは、どうでしょう。夭折したものはその幼さの思考のままであり、老いて死にいたるものは、その『麒麟も老いてはど馬にも劣る』精神を持って、ここに降り立つということですね。天命を全うしたものは、一体全体思考というのを持ち合わせているものなのでしょうか。」
「黙れ、お前は少し忌憚のない質問が多すぎる。それらは、自己弁解ととられてもおかしくないぞ。」
「自己弁解――そんなつもりはありません。僕は、天国が僕の住み良い処であるか知りたかったまでで――」
「ハ、ハ、――」
その笑い声――嘲笑は、僕の四方八方から襲いかかってきた。が、生憎呆れはてた僕にはそれに怒りを感じることはなかった。
「お前は、お前の天国に留まることができると思っているのか。それは、勘違いというのではないか。お前がここに残るのを決めるのは、この俺の判断に依るのだ。俺がお前を地獄に突き落とすことも容易いことだ。」
「――あなたは、神の使いか何かですか。」
「ハ、ハ、それには答えられないな。」
「では、僕の推測を述べましょう。貴方は、死霊か何かです。そして、ここは、天国という名の汚らわしい世界です。」
「お前は、何を狂ったか――」
「だって、そうでしょう。犯罪のない世界とは、刺激の存在しない証拠です。ここの住民の年のとらないというのに、考えてみても身震いしてしまいます。僕の何十年、何百年という生活が、衆愚に陥ったまま、何の刺激もなく、終わりなく続くというのに、果たして恐ろしいという感情の起きないはずがありますか。ここは、まるで魂の幽閉場所のようです。しかも、この雑音のない、甘味の漂う空気は、人間の感覚の何もかもを破壊しようとしています。それは、まるで麻薬のようです。そして、あなたは、現世で罪を重ねたが、改心したものでさえも許せない、度量の狭い好事家か何かです。」
「ハ、ハ、言いたいことはそれだけか。お前の望んでいるのは、暗闇の中の刺激のある世界だな。それならば、一生地獄で苦しむがよい。」
「天国――人間の怠惰を助長させる空間とは。それでは、貴方の言う地獄とは、何処のことです――僕にはわかります、そうでしょう。さもしき世界――娑婆のことではありませんか。――さあどうぞ、僕を地獄へ突き落として下さい。そうでしょう。地を徘徊するものたちは、さも惨めでしょう。地に生まれ、地を耕し、地へ帰る――それを永遠に繰り返すのですから。天空からその光景を見下ろす貴方の視線から見れば、あまりに『獄』と呼ぶのに相応しいところでしょう。――しかし、ここも『獄』ではありませぬか。ああ、恐ろしい世界よ。おお、神よ。どうか、僕の魂を早くここから――あなた方の思慮の行き届く、このさかしき世界から連れ出して下さい――」
そう叫んだときに、もう一度、音をも立てぬ生温い風が、吹き付けてきた。そうして、その心地よい風は、瞬く間に僕の魂を包み込んで、何処ともなく連れていった。
作:平成十年九月十二日