サークル誌『天下布武』第一号掲載小説
作者:山原水鶏
題名:蟾蜍
――蟾蜍 路傍に惑い 野垂れ死ぬ――
茫然とした脳を必至に支え、寒々とした道端を半ば呪いながら、木偶の四肢を漸く引きずっていたが、その行動に反するが如く不意に漏れた溜息――信じがたい悪業は、模糊たる圧迫で操られていた我が胸襟に冷然とした心持ちを植え付けるに至った。この思いは、――然し、歩みを止むほどの効力を発し得なかった。
ああ、幾何堕落者の自由に憧れたろう、公園で黒き鳩に餌を遣る姿に共感したろう――が、所詮それらは逃避であり、微々たる願望に過ぎなかった。社会的に軽き地位――然し、この地位こそが何と誇りにされる対象である――を得た我が儚き自尊心は、破棄を実行に移す勇気にすら恐怖の念をもって接していたのである。
我が四肢は、蕭々たる木枯らしに打ちのめされながら、傲慢に横たわる坂の上を、恬然と覆い被さる碧空の下を転げていった。落莫たる路傍に響く足音が、櫛比とした邸宅の影に脆弱に吸い込まれ、消えていった。足跡を焦がす幽暗な影が、不気味な形相で揺れ――その定期的な震えは、嘲笑と思えないこともなかったが、生憎見慣れた幻影に捧げる冷笑も何処か、――暗黙の中に霞んでしまっていた。
漸く坂道を下り終えた安堵に翻弄されていた我が眼界にふと現れた光景は、平生の我が生活と全く無縁な――若しくは、忘れかけていた唐突な至福であった。この至福は、実に意外な程我が胸襟に近親を促した。
「こうちゃん、見てみて――」
彼方の方で一人の童子が、地面の辺りを指さしている。その者が発した甲高い声が、お揃いの黄色い帽子を被ったもう一人の童子――恐らく彼がこうちゃんなのだろう――を駆け寄らせた。
はて、一体私の歩みを止めたのは、何であろう。私は、恍惚とした無意識の中で、案山子の如くこの場に立ち止まって彼らを眺めていたのだ。――どうにもならない猜疑に駆られたが、彼方のほうは、此方に無頓着で、珍しげな何かに見入っていた。
「うわあ――何これ、」
こうちゃんが、怯懦に足元を覗き込む。
“何”の発見者は、得意げにそれを見下している。
この位置からではそれが彼らの足で隠れていて、実際何であるか毫も判らなかった。それ故、あまりに仰々しい彼の態度は、我が興味を一心にそれに引きつけた。
「これ、一体何なの、」
彼は、もう一度尋ねた。屈託のない笑顔と不思議そうな瞳は、我が微笑を浚うのに刹那もかからなかった。
「ええ、判らないの、」
発見者は、驚いた様子を呈して丹念に地面を覗き込んでは、渋面を浮かべた。
「これはね、蛙の死体だよ。」
その返答は、狼狽の体をさした彼よりも、果たして我が胸襟を打ちのめした。この道で蛙が彷徨い死を遂げたというのか――
「嘘だ、」
彼の叫びは、私の心の声でもあった。
「本当だよ。よく見れば――ほら、緑色ではないけれど、図鑑に載っていたような容姿をしているし――そうだ、きっと腐ってしまったんだよ。」
「嘘だ、内臓が飛び出ているし、それに皮膚がぶつぶつしているし、かえるはこんなに大きくないって、先生がいっていたし――」
時期後れの蟾蜍――が、自動車の餌食にでもなったのだろうか、それとも心無き者の意図的な殺傷に遭ったのであろうか。
私は、惨死した哀れな死骸を容易く思い浮かべた。それは、別段私に驚愕の念に陥れるほどの情を湧かせはしなかったが、只、彼らの無邪気な会話の裏側にある暗澹とした何かに身震いしないではいられなかった。何に?――それは、童子を見上げるあの蛙しか知らなかろう。然し、この震撼は、悲哀がつのった結果引き起こされた同情であろうはずがない。若しくは、路上で野垂れ朽ちた蟾蜍に対する拒否反応、畢竟、軽蔑であるともいうのか。
想像上の蟾蜍は、無惨にも破れた内臓を露にし、黒鉛の皮膚に散りばめられた不規則な疣を寂寞たる地にへばりつけていた。確かに不気味ではあるが、哀れに思うことでもなく、無様な格好に対する嫌悪よりも、ぬきんでた感情など起こりはしなかった。
只、その嫌悪という感情がつのると、侮蔑が重なると、極自然に、漸次にその中にある一つの嫌疑が浮上してきた。これは、唐突に私を苦しめはじめた――蛙は何故にこの路傍に血迷うたのであろうか、と訝しく思えてきたのである。
この辺りに川などあるはず無く――それとなく彼の住むことが可能な場所は見当たらず――唯あるのは、地平線までも広がるコンクリートの遺跡であった。
もし、その蛙が、何処からこの道に自力で這いあがったならば、相当な努力を要したろう、と少々感心したが、――実際のところ、蛙に訊かねばそのことは判るはずもない。誰ぞやの愛玩動物であったかもしれぬ。只、それらの想像以上に確かなことは、彼が此処に至った事態が無謀であったことである。危険を省みず路傍に至った、畢竟、道を違えた愚か者であった。
――その思いから、私の唇は微々たる冷笑をたたえたが、然しそれは、いつのまにやら偏屈な震えを細かく刻みはじめていた。
蟾蜍を――彼を愚か者と見なす以上に、果たして自分を愚か者と言い切れない筈があろうか。いや、私は確かに愚か者であった。そうして、何等疑問をも持たず、前方にある道を正しいと単純に信仰しているのだ。ましてや、彼の末路と寸分違わぬ伏線の上をとぼとぼと歩いているのではないか。この生き蛙め――
四肢は、異様な鳥肌で――蟾蜍の疣のように――膨れ上がり、顎は、不気味な音を小刻みに響かせていたが、――その音にも勝る子供達の大声に、私は、救済を求めるが如く見上げた。そうして、眼界に飛び込んできたその情景は、――奇声を発しながら地団駄を踏む彼らの――征服者らの姿であった。
作:平成九年十一月