サークル誌『天下布武』第七号掲載小説

作者:山原水鶏

題名:暗鬼

   慚愧を咎める由は無し

   暗鬼を宥める故は無し

 人の性根というのは、他人のそれと大して差のないものである。というのも、あるまじき行為をとったものは、大方――僕の知る限りの人間は、その過失を隠匿しようと努めるからである。

 このことは、僕にさえ例外をみない。今日に至るまで、数多の過失を「忘却」という処の井戸に突き落とし、蓋をして、何気ない生活を漸く維持しているのに違いない。挨拶程度の知人にでも、その封印をこじ開けられたのなら、――僕の周囲の環境が、悉く歪められてしまおう。

 畢竟、過去の記憶の大抵が、常に僕を脅迫し続けるような、陰惨な物事の描写である。井戸の周辺に転がって、日を浴びている数少ないのは、許された領域の記憶、――それらは、この日の僕を決して侵害することのない、全くたわいもない他人事なのである。

 他人事――確かに他人のことであるのかも知れぬ。が、その他人にとっては、それが、実は、あるまじき行為の一端であるのかも知れぬ。そのものは、若しくは、僕の過失の一端を握っているのかも知れぬ。畢竟は、そのものと僕と、互いの弱みを共有しあっているのだ。で、そのように考えてみると、僕らが一所懸命に奮闘して守り抜いた過失を、それの知るものによって容易く矧がされてしまうこともあり得る。ということは、僕らの、僕らの過失を僕らの中に隠匿するという行為も一見無駄であるのかもしれぬ。にもかかわらず、公にされなかったのは、他人にとってのそれが、単に口にするのに何かしらの拍子がなかった為であろう。若しくは、僕にとっては陰惨な出来事であったとしても、他人にとっては蝿の腹の構造ほどに気を留めないことであったのかもしれぬ。

 これからお話ししようとする僕の記憶の一端も、勿論、僕に全く害を与えない他人事である。このことを胸を張ってお話できるのも、先程述べたように、今から個別に非難するものと僕とが、互いの弱みを共有しあっていない為、――そのことが、いたって判然としている為である。恐らく、そのものの脳裏には、僕に関することなど微塵も残っていないのであろう。が、僕を刺殺する為に、何処からか、鋭利な殺傷力を持ち合わせてくるのかも知れぬ。が、一体全体、この鈴虫めの僕の息の根を止めたとて、何の利益が得られよう(何の価値の生じぬことを平気でやってのけてしまうのが人間というものではあるが)。尤も、僕にできる精一杯の羽の打ち合わせも、あのものにとっては、愚者の哀れな物乞いと見えるのに違いないが。――

 夕焼けの頬が、うっすらと薄紅がかる頃、僕は、そのような景色を見るのにも、幾分の配慮を何処かに見出さねばならぬ程の憂鬱に――その効用に苛まれていたのだった。成る程、あの夕日の山陰に落ち着こうとする行為が、一種の暗示の如く僕の不安を助長しているのかも知れぬ。窓枠に型取られた刻一刻と変貌を呈す燦然とした風景は、教室に漂う陰鬱たる影を失笑しているようであった。

 僕は、その不気味さに耐えなく、身を震わせた。勿論、椅子の音を立てない程度に――である。そうして、僕の視界が反射的に捉えたのは、全ての影の原因である人物――仮にSと名乗っているとしよう――であり、僕をこの夕暮れの刻まで拘束している張本人であり、あるささやかな事件の――幼少時代にとっては、許し難き行為の容疑者であった。――

 教壇の傍らには、無惨に飛び散った花瓶の欠片と、黄色い、名も知れぬ華の死骸の、床に横たわっている筈だが、夕闇に呑まれ、見ることのできない。が、それを目したところで、一体全体何を得られるというのであろう。すっぽりと闇に覆われた床には、その華を活かすためのみに存在した水の、微かなてらいが揺れていよう。それは、花瓶の倒されたために投げ出されたのに違いなかった。黒板には水の飛散したために生じた染みが、未だに他の部分と一線を画していた。

 このようなままを呈しているのは、我らが担任の「花瓶を倒したものが後片付けをせねばならない」という有り難い言葉の発せられた為である。その言葉を聞いたのは、二時間程前のことであろうか――僕には、或いは半月に感じないこともなかった――その頃から、担任教師は、美しく整えられた唇をへの字に歪めたまま、このSを睨み付けているのである。その表情を見ると、平生の温厚な性格をちょっと想像し難い。象の如く澄んだ瞳も、今はその面影を露ほどに見せず、烏の羽根の如き髪も、その艶を失っているようであった。が、この教師は、僕だけではなく、殆どの生徒に愛されていたのに違いなかった。また、彼女の魅力は、その美貌に留まらなかった。彼女の教育内容は、小学生には十分すぎるほどの充実を極め、僕らにもたらされていた。が、我らが落ちこぼれのSは、一体全体この教師の何処に汚点を見出したのであろう――彼の悉く彼女に反発する態度は、愚行そのものであった。勿論、どのような無法者も、その行動の発端に何らかの意図の持ち合わせていないことのあるまい――Sも、この教師の、あらゆる教師の内で、最も完全たる点を指摘し、その付属的な性質、畢竟決して生徒を誉めることのなかった点を掲げた。成る程、僕のこの教師と接した時間の内で、彼女の誉れの受けたことのなかったのは、認めなければならぬ。が、その相反する行為――侮辱や叱咤の与えられたこともなかったのに違いない。

 Sは、彼のその持論のために、その教師との接触も――気のせいかも知れぬが――あまり生じなかったように思えた。いうなれば、冷遇されていたのである。愚鈍な僕が、そのように思えたのだから、僕の周囲の、それの気づかぬ筈はあるまい。尤も、Sは華奢な上に短躯で、――そのうえ、一際寡黙で、目ばかりが炯々としていたから、僕ら周囲からも忌み嫌われていた節のあったのに違いない。その為に悉く孤立していた。

 花瓶の倒れて、Sの犯人にされたのは、仕方のないことなのかも知れぬ――僕は、丸まった彼の背筋の曲線を見ながら、そう思うより他なかった。実は、このような事件に類似した事件が前にもあった。その時の犯人は、教師の「故意ではない行為は、罪ではない」という言葉の下に、その過失をあっさりと認めた。そうして、教師は、泣いている子羊を宥めながら、共に壊れた硝子の破片を拾い集めたのだった。その時、教師は、僕らの好意を勝ち取ったと言っても過言ではない。僕らは、その頃から正直になるように努めた。ただ一人、Sを除いては。「S以外のものが花瓶を倒したのなら、正直に告白しているのに違いない」というのが、僕らの心の中に過ぎっているのは明白であった。

 窓の外では、夕日が山の際に落ち込もうとしていた。が、僕らの教室は、依然静寂の中に包まれていた。生徒の気配すら、緊迫したこの異様な空間の中にもみ消されてしまっていた。僕は、窒息しそうな思いを断ちきろうと、周囲に何かしらの変化を得ようと努めた。――教壇では、やはり教師が仁王の如く立っている。その姿は、見るのも絶えないものであった。夕闇に浸食された黒緑色の黒板は、教師の赤黒く染め上げられた紅色の洋服を薄暗く際だたせていた。

 教師のその表情は、先程と一向に変わっていなかった。否、しかしその目を見よ――先程よりも鋭さを増していないのであろうか。なにものも許すことを拒む視線で、Sを睨み付けていはしまいか。ああ、僕がSの立場であったなら、僕の身体の疾に石と化したのに相違あるまい。

 で、その当の本人は――Sは、どのような心境に沈み、どのような表情をしているのであろう――僕は、教師の視線を辿って、Sの姿を見つけだした。が、生憎、僕のこの位置からは、Sの後ろ姿を漸く確認できるのみであった。僕は、彼が罪に苛まれ、恐怖に頭を垂れ、夙に謝ればよかったという後悔をしているのであろう、という姿を想像した。が、どうであろう――少なくとも、Sの後ろ姿は飄然と立っているのである。その後頭部は、垂れるどころかちゃんと座っているのである。Sは開き直っているのであろうか、否、そう考えるよりは、寧ろその態度で、何等かを――その潔白を主張しているようであった。彼の小さな身体で、何よりも大きな偉大さを象徴しているようであった。

 僕がSのその点を漸く留意したときであった。教師は「大分暗くなりましたね」と言い放ってSから視線を外した。その行為は、何故だか判らないが僕に気まずい思いを抱かせた。そうして教師は、そそくさと黒板伝いに教壇を離れて、電灯のスイッチのあるところまで歩み寄った。で、彼女は徐に右手でそのスイッチを捻ると――その刹那、暗く淀んでいた教室が色付いた――机が麻茶色を勝ち取った――すり減った床が露になった――周囲の生徒の気配が濃厚になった――花瓶の破片が無惨に姿を現した――寝そべった花が、一層虚しく佇んでいた――黒板の染みがより鮮明になった――Sの姿が、より凛々しく浮かび上がった――教師の洋服が紅色を取り戻した――が、その服の一部分、丁度スイッチを捻った為に掲げられた右肘には、濁った赤褐色が――罪の色がくっきりと残っていた。疑いない――それは、教師が花瓶を倒したのに生じた水の飛散による染みであった。

作:平成十一年二月九日


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